認識論における非個人主義的内在主義



伊勢田 哲治


1 導入

本稿では、認識論における内在主義と外在主義の論争に対する一つの対案としての「非個人主義的内在主義」(non-individualistic internalism, NII)という考え方を提案し、その可能性について考察する。NIIはこの論争における一種の手詰まり状態を、集団という視点を導入することで解消しようとする立場である。その意味でNIIは「認識論の社会化」と呼ばれる近年の一連の動きの一部と理解することもできる。ただし、認識論の社会化の多くが、認識主体の社会化という形而上学的な側面の社会化や、認識論的判断対象に社会的なものを含めるという認識論的判断対象の社会化を目指すのに対し、NIIが目指すのは認識論的判断基準そのものの社会化である(判断基準と判断対象の差は、物差しと物差しで測られるものの区別だと理解していただければ分かりやすいだろう)。
以下、まず内在主義と外在主義の論争がどのようなものであったかを確認し、手詰まり状態を解消するための思考法として、認識論的基準が満たすことが望ましい常識的真理のリストを掲げる(第二節)。次にそれらの常識的真理をよく満たすことのできる立場(正確にいえば一連の立場の総称)としてNIIを定式化する(第三節)。NIIについて解決しなくてはならない問題は多いが、本稿では特に、認識論的集団責任の概念をめぐる問題を考察する(第四節)。

2 内在主義と外在主義の論争の概観

NIIがどういう動機から生じ、どういう利点を持っているか理解するためには、まず、認識論における内在主義(internalism)と外在主義(externalism)の対立がどういうものであったかということを確認する必要がある。というのも、この立場はこの論争における第三の選択肢として提案されているものだからである。なお、内在主義対外在主義の論争の特徴づけのしかたは論者によってさまざまであるので、以下ではそのいくつかを参照にしつつ、自分なりのまとめを行う(注1)
現代の英米の認識論において、知識(本稿では命題的知識のみを問題とする)とは真なる信念の一種であるということについてはほぼ普遍的な一致が存在する。ただし、知識がどのようなタイプの真なる信念なのかということについては深い対立が存在する。以下の議論では、プランティンガらにならって、保証(warrant)という言葉を、「真なる信念が知識となるために必要なもの」と定義する(Plantinga 1993)。つまり、知識とは、定義により、「保証された真なる信念」(warranted true belief)となる。しばしば知識の定義に用いられる「正当化」 (justification)という言葉はもっぱら本人が意識的に行う作業を指す言葉として使う。
この用語法を採用するなら、内在主義と外在主義は、保証の中に含まれうるものについての対立であると述べ直すことができる。図式的にまとめれば、以下のようになる。

内在主義: 保証に含まれるものはすべて認知者本人がアクセスできるものでなくてはならない
外在主義: 保証の不可欠な部分として認知者本人がアクセスできないものが含まれる

つまり、内在主義的な保証とは、ほぼ正当化と同一視することができる(ゲティア問題を回避するためにいわゆる正当化以外の要素を導入することは考えられるが、その追加部分もまた本人が意識的に利用できるものでなくてはならない)。他方、外在主義においては、保証の要素として認知者が意識的に信念の正当化をする際に利用可能でないもの、本人の知らない因果関係や事実関係が不可欠なものとなる。
内在主義にも外在主義にも、言うまでもなくさまざまなバージョンがある。たとえば、その認知者にとって利用可能な経験的データによって支持される命題全般が正当化される、という経験主義の立場は内在主義の一種だと考えられるし、非経験主義的だが本人に利用可能な考慮要因(たとえば理論の単純性など)を使うことも認めるような立場もまた内在主義的であろう。
外在主義の側でいえば、認知プロセスの信頼性、すなわち、その信念を生んだ認知プロセスが全体として真なる信念を産む傾向を持つことを保証の主要な要素と考える信頼性主義の立場が代表的である(Goldman 1986)。あるいは、その信念が真でなければその信念を持たなかっただろうというような状況が成り立っているならその信念を知識と認める、という立場もある(Dretske 1969)。ただし、外在主義だからといって、正当化の要素を完全に排除する必要はない。たとえばゴールドマンの信頼性主義においては、自分の信念が正当化されていないと考える十分な理由を認知者が持っているにもかかわらず、その認知者がそれを信じ続けるならその信念は正当化されない、という留保条項をつけるが、これは内在主義的な必要条件だと言うことができるだろう。
さて、内在主義と外在主義は、それぞれお互いの立場をどのように批判しているのであろうか。まず外在主義の内在主義批判を見てみよう。外在主義のあげる内在主義への批判点としては、まず、本人にアクセスできるリソースだけでは保証としては不十分すぎて知識など存在しなくなる、という点があげられる。たとえばわれわれがデカルトのデーモンに騙されているかどうかは内在主義的な手段では確認のしようがなく、その可能性を排除しないかぎり外的世界についての信念が正当化できないとしたら、外的世界について正当化された信念などありえないことになってしまう。外在主義ならば、現に非デーモン的な外的世界が我々の信念の原因となっているという条件を課すことでこの問題を回避できる。第二に、「知識」という概念に関する直観として、幼児や動物なども知識を持ちうると考えるのが自然であるが、彼らには自分の信念を正当化することはできないため、内在主義的には彼らは知識を持たないことになる。これもまた外在主義ならば簡単に処理できる。第三に、知覚的信念(目の前にある机を見て形成された「机がある」という信念など)は知識の有力な候補であるが、知覚というものがどう働き、どうして信頼できるのかを説明できるのは認知科学者以外にはほとんどいない。ということは認知科学者以外は知覚的信念を正当化できず、知覚的知識も持たないことになるであろう。
他方の内在主義もまた外在主義をいくつかの点で厳しく批判する。第一に、もし外在主義の訴える保証が(たとえ部分的にであれ)われわれにとって完全にアクセス不能なものならば、そんな保証の概念は無用の長物となってしまうであろう。われわれが認識論を行う主要な理由の一つは、どういう場合に何を信じたらいいかについての指針を得るという規範的な目的であるはずなのに、ある信念が保証されているか原理的に確認できないのでは指針ともなりようがなく、認識論の規範性も失われる。第二に、デーモン世界についても、外在主義をとるならば、本当にわれわれの世界がデーモン世界であったとき、われわれは保証された信念を持たないことになってしまう。これに対し、内在主義ならば、デーモン世界においても、少なくとも、偽ではあっても保証された信念をわれわれは持ちうることになる(注2)。どういう信念が望ましくどういう信念が望ましくないかについてわれわれは実際に判断できるはずだという直観に照らすなら、内在主義の方がもっともらしいことになるであろう。第三に、外在主義によればある人が(主観的には)何の根拠もなく信じたことが知識だという可能性が生じることになる。それは認識論的無責任であり、知識というものについてのわれわれの直観に強く反する。
なお、「認識論的無責任」という概念については、あとの論点とも関わるところなので、もう少し詳しく説明しておこう。ここでいう「責任」とは、倫理学的な責任を単に信じるという行為に拡張したものではないので注意が必要である。認識論的責任という概念は、むしろ、主観的にはなんの根拠もなくあることを信じている人に対して「正当化された信念を持っている」とか、ましてや「知識を持っている」と呼ぶことに対する直観的な抵抗感を出発点としている。そして、その抵抗感を言葉にすれば、「そうした人は認識論的に無責任だ」という言い方になるのである。
また、内在主義と外在主義の差は、「私やあなたは知識を持つために何をすべきなのか」という一人称・二人称的規範的問題と、「知識を持っているのは誰か」という三人称的記述的問題のどちらに関心を持っているかの差だと見ることもできる。内在主義は認識論を本質的に規範性をもった営みとみなすため、われわれが意識的に選択できるものを重視するが、外在主義はむしろ心理学的現象としての知識の解明を認識論の中心課題と考えるために、認知者本人にとってのアクセス可能性にこだわらないわけである。
さて、以上のように、内在主義と外在主義の論争は、それぞれがある程度の説得力を持って相手を批判しているために、一種の手詰まりのような状態になっている。こうした状況に対して、なんらかの決着をつけようとするならば、どのような態度をとることが可能であろうか。本稿で参考としたいのは、マイケル・スミスがメタ倫理学において行った手法である(Smith 1994)。メタ倫理学においても(認識論とはまったく異なった意味における)外在主義と内在主義が対立しており、決着のめどはついていない。この論争に切り込む際に、スミスは、一連の「常識的真理」(platitude)のリストを特定することから始める。常識的真理は、「言語直観」や「哲学的直観」と呼びならわされてきたものであるが、スミスはこれを概念的論争のてことなる一致点としてプラグマティックにとらえる。ある種の常識的真理がすくなくとも一応の説得力を持つということを論争の当事者たちが一致して受け入れるからこそ、論争する意味もあるのであり、何ら一致点がないなら、こうした概念的論争を行う手がかりすら存在しなくなる。われわれに「直観」と呼べるような能力があるかどうかにかかわらず、そうした一致点は必要なのである。
さて、こうした常識的真理のリストが特定できたなら、次にするべきことは、スミスによれば、それを最大限満たすような選択肢を考えるということである。スミス自身、そうした常識的真理の分析を通じて、メタ倫理学における新たな立場の提案を行っている。それと同じことを認識論で行おうというのが本稿の路線である。
具体的には、以上で見たような内在主義と外在主義のそれぞれの批判の論点はそれぞれ常識的真理を背景としている。以下に列挙してみよう。もちろん、以下のリストはいかなる意味でも網羅的なものではないが、主な論点は押さえているはずである。

(a) われわれは現に知識を持つ
(b) 幼児や動物も知識を持つ
(c) 知覚的信念の多くも知識である
(d) 知識の概念は指針としての性格や規範性を持つ
(e) 認識論的によい信念か悪い信念かの判断は、この世界がデーモン世界かどうかからは独立に下すことができる
(f) 認識論的に無責任な信念は知識ではありえない

現状では、内在主義も外在主義もこれらすべての常識的真理をとりこむところまでは行っていない。ということは、内在主義者が自らの立場をより強力にしようとするなら (a)(b)(c)のような常識的真理をなんとか取り込むことが重要であるし、外在主義者が自らの立場をより強力にしようとするなら(d)(e)(f)のような常識的真理を取り込むことが重要な戦略となってくる。実は、そうして両者がお互いに向かって一歩ずつ歩み寄った地点に見えてくるのがNIIなのである。

3 両者の利点を生かす立場としての非個人主義的内在主義(NII)

では、NIIとはどういう立場だろうか。まず、NIIの定式化を行おう(注3)

NII: 保証には認知者本人がアクセスできないものが含まれるが、そうした保証は認知者を含む適切な認知共同体にとってはアクセスできるものでなくてはならない。

この定式化からもわかるように、厳密にいえばNIIは外在主義である。しかし、以下で見ていけばわかるように、議論の構造はじめ多くの点で内在主義的性格を持つ。
以下の議論を理解してもらう上で重要なのは、内在主義や外在主義と同様、NIIにも非常に多様なバージョンが存在するということである。一方には、内在主義における認識主体を複数化したバージョンがある。たとえば上記の経験主義的な内在主義において、データとして利用可能な経験を個人のものに限らない(たとえば自分が確認した実験結果だけでなく他人が確認した実験結果もまた正当化において利用してよい等)ことにするなら、それもまたNIIの一形態となる。他方には、外在主義における保証の基準を認知共同体が確認できるものに制限するというバージョンもありうる。たとえば、信頼性主義の核となる「信頼のおけるプロセス」という概念を、「当該の認知共同体によって信頼がおけると判断されたプロセス」で置き換えるなら、これもまたNIIの一形態である。
また、NIIは、どういう認知共同体が参照されるべきだと考えるかによってさまざまなバージョンに区分することができる。一方では本人と直接相互作用を持つことができる人々を共同体の範囲とするという考え方もあるであろうし、他方では全人類を一つの認知共同体と見なしたり、過去から未来にわたるすべての知的生物を一つの認知共同体と見なしたりする立場もありうるかもしれない。内在主義からの歩み寄りとしてNII を採用するなら前者に近い共同体が、外在主義からの歩み寄りとしてNIIを採用するなら後者に近い共同体が参照の対象として望ましいということになるであろう。それらのさまざまなバージョンのどれを選ぶべきかについての議論は後にまわして、ここではとりあえずNIIという立場がこうした広い範囲の可能性をゆるすゆるやかな立場として定式化されているということを確認して先に進もう。
NIIのなによりの利点は、上記の六つの常識的真理すべてを(少なくともそのいずれかのバージョンにおいて)とりこむことができるというところである。
まず、(a)についてだが、NIIの外在主義的な部分をうまく活用すれば、NIIは少なくとも外在主義者と同程度には、知識の可能性を認めることができるはずである。たとえば、ある信頼性主義者がある認知者の信念形成プロセスを分析して、その結果「彼女の信念は保証されている」と判断するとしよう。そのような場合、その信頼性主義者と認知者が適切な意味で同じ認知共同体に属すとみなし、しかも保証の基準について信頼性主義的な立場をとるバージョンのNIIを採用するなら、彼女の信念はNII的にも保証されていることになる。そして、もしその信念が真であるなら、どちらの立場からもその信念は知識であることになる。これはつまり、信頼性主義者が知識と見なすものは、NII主義者にとっても知識となりうるということである。
(a)が解決するなら、(b)と(c)を取り込むことは比較的容易である。まず、NIIによれば、幼児や動物も認知共同体の一員である限りにおいては知識を持ちうる。また、(c)については、認知者と同じ認知共同体の中に知覚プロセスの信頼性を確認できる者がいるならば、知覚的信念も保証されうる。共同体の中に認知科学者がいないとしても、ある人の知覚が信頼できるかどうかは、第三者ならば客観的なテストをして確認することができる(「指は何本みえますか」「三本」といった問答を通して)。もちろん、そうした客観的テストは自分自身でもある程度は行えるので、これはNIIのみというよりは内在主義全般から外在主義への回答ということになる。
次に、内在主義的な方の「常識的真理」であるが、まず、(d)については、誰にとってもアクセスできないもの、誰にも左右できないものは保証の中には含まれない。つまり、認識論が規範性や指針としての性格を持つための最低限の条件はNIIにおいても確保されることになる。第二に(e)であるが、もしわれわれが集合的にデーモンにだまされているとしても、ある信念がわれわれに確認できる範囲で保証されているならば、それは「認識論的によい信念」だ、と言ってよいであろう。(f)については慎重な扱いが必要であるため、後で詳しく検討する。
当然のように、NIIの様々なバージョンのどれを取るかによって、以上のような常識的真理のどれをどの程度満たせるかは変わってくる。外在主義よりのバージョンを取るなら(a)(b)(c)を満たしやすいであろうし、内在主義よりのバージョンを取るなら(d)(e)(f)を満たしやすくなるであろう。誤解のないように付け加えるなら、わたしはその場その場で都合のよいバージョンを選べということを主張しているわけではない。NIIの諸バージョンはお互いに対立するものであるから、最終的には、NIIのさまざまなバージョンのうちの一つ(おそらくはこれらの常識的真理をもっともよく満たすもの)を選ぶ必要があるであろう。ただ、いずれのバージョンも、程度の差はあれ、外在主義を支える常識的真理と内在主義を支える常識的真理の両方に答えることができるという点は共通する。
NIIに対しては、当然予想される批判がいくつかある。まず、認知的共同体の概念が曖昧であることは当然批判の対象となるであろう。また、同じ共同体の中にいる誰かにとってアクセス可能ならいいのか、それとも適切な仕方で認知者と保証を行う者が直接の相互作用を持たなければいけないのか、というような点もあいまいなままである。これについては、上に述べたようなさまざまなバージョンの中から一つを選び出すことによって解決する問題である。今のところNIIの多くのバリエーションが並列して存在しているわけであるが、同じことは内在主義や外在主義にもあてはまるわけであるから、それ自体は反論とはならないはずである。第二に、NIIは内在主義と外在主義の両方の長所というよりは欠点を引き継いでしまっているのではないか、という疑問も考えられる。この疑問に対する答えもまた、NIIの具体例に即して考える必要がある。弱点を引き継いでいるバージョンももちろんあるだろうし、引き継いでいないものもあるだろう。

4 非個人主義的内在主義と認識論的集団責任

以上の議論が示すのは、NIIが実質的な提案として力を持つためには、特にどういうタイプのNIIを推すのかについてもう少しはっきりしたイメージを提示する必要があるということだった。この問題について考えて行くための手がかりとして、以下では、特に(f)に焦点をしぼって検討を行う。認識論において要求される認識論的責任がどういうもので、その責任を果たすには最低限何が必要かを考えれば、NIIにおいてどういう認知的共同体が要請されるかも見えてくるであろう。
(f)を背景として外在主義的な認知者は認識論的に無責任だという批判が外在主義に対してあびせられてきたわけであるが、外在主義は「内在主義は認知者個人に対して理不尽な責任をとることを要求している」と答え、事実上(f)そのものを否定してきた。もちろんそういう行き方もないではないが、他のことが同じならば、すでにある常識的真理をより多くとりこむことのできる立場の方がより強固な地盤を持つことになるだろう。そこで、NIIは内在主義の要求水準が高すぎることについては外在主義に同調しつつ、一足飛びに「認識論的責任などとらなくてよい」という逆の極端に走るような外在主義も批判するという中間的立場をとる。
しかしそんな中間的立場はどうしたら可能なのであろうか。そこで登場するのが、集団的責任(collective responsibility)という考え方である。倫理学においては本人が責任をとるか、誰も責任をとらないか、の間に、本人以外の誰かが責任をとる、という第三の選択肢が存在しており、これを応用することでNIIにおいても責任の概念を維持できるのではないか、というのがここでのアイデアである。つまり、個人は自分の信念について責任を持たなくてもよい(自分で自分の信念を保証できなくてもその信念は知識でありうる)が、少なくともだれかが責任を持たなくてはならない(だれかがその信念を保証できなくてはならない)。
この種の集団責任は日常的な例においても理解可能である。たとえば、わたしが「なぜ君は原子が原子核と電子から構成されていると思うのか、その信念を正当化できるのか」という問いに自分では満足に答えられない場合でも、満足に答えられそうな人を紹介することはできるかもしれない。その相手がその信念を正当化してくれるなら、わたしの信念は全くの無責任ではないと考えることができる。
この路線でいくためには、倫理学における集団的責任論と認識論的責任の間の類推がどのくらいうまくいくかを確認する必要がある。そこで問題となるのが、過去志向的責任と未来志向的責任の区別である。前者は、すでにおきた悪い出来事について説明や対処をする(「責任をとる」)という意味での責任であり、後者は、これから起きることについてそれが正しい方向へ進むようにさせる(「責任ある態度をとる」)という意味での責任である。この二つはお互いに関連しており、たとえば、「説明責任」は、説明できるような行為をするという未来志向的な側面と行為を事後的に説明するという過去思考的な責任という表裏一体の責任と理解することができる。とはいえ、両者が別個の概念であることも確かであり、このことは、前者にとって「責任がない」(=無責任)のは悪いことであるのに対し、後者にとっては責任がないのはむしろ善いことである、という対比に端的にあらわれている。
さて、実は倫理学において集団的責任が論じられる場合には主に前者が、認識論において認識的責任が論じられる場合には主に後者が念頭におかれており、認識論的集団責任を考える際には両者の違いに気を配る必要がある。以下、もう少し具体的にみていこう。倫理学における集団責任のさまざまな形については、A.ファインバーグが四類型に整理している(Feinberg 1968)。

(i) 落ち度のない者が同じグループに属しているというだけの理由でとる連帯責任
(ii) 非貢献的落ち度(non-contributory fault)のある者がとる責任
(iii) 個人へ分配可能な集団責任
(iv) 個人へ分配不可能な集団責任

簡単に説明すると、(i)には例えば同じ国の国民だというだけで、過去の世代の行った戦争の責任をとる、といった責任が含まれる。(ii)に含まれるのは、自分は加害者ではないが加害者となってもおかしくなかったような落ち度ある行為を行った者が取る責任で、たとえば飲酒運転で事故を起こした者がいる場合、飲酒運転はしたが運良く事故を起こさなかった者も責任の一端を負う、という考え方がこれにあたる。(iii)はたとえば群衆が暴動を起こして器物などを損壊したような場合に生じる責任で、群衆の責任とはいえ、最終的には個々人の責任の集合体である。(iv)についてはファインバーグはあまりはっきりした例をあげていないが、たとえば企業の落ち度ある行為の結果として企業そのものが取らされる責任が含まれると考えられる(French 1979)。これらの責任は、内容に差はあれ、いずれも過去志向的責任である。
これに対し、認識論的責任はもっぱら未来志向的に論じられてきた。(たとえばBonjour 1985, p.8での用法などを参照)。すなわち、「認識論的無責任」という言葉は、これから何を信じるかということに関する無責任性に関するものであり、保証されない信念を持っていたことで賠償や釈明を要求されるというような文脈で使われることはない。したがって、過去志向的集団責任論をそのまま認識論的責任には当てはめられない。
ここで取りうる一つの戦略として、認識論的責任自体を過去志向的なものと読み替えるという方法が考えられるが、それでは「認識論的無責任」という、この文脈での中心的な概念が扱えなくなってしまいそうである。そこでまずは、倫理的集団責任を未来志向的に読み替え、それを認識論的責任に応用するという戦略を検討する。過去志向的な意味での集団的責任をとらされる立場に追い込まれないためには、未来志向的な意味で集団的に責任ある態度をとる必要があるだろうから、その未来志向的な部分を認識論に置き換えるというのも一つの考え方としてありうるだろう。この考え方を取るならば、認識論的集団責任の内容として(ファインバーグの議論を応用して)以下の四つの候補を挙げることができる。

(i') 認知者と同じ認知共同体に属しているというだけで他の者がその認知者が保証された信念を持つように気をつける責任
(ii') 同じような認知プロセスを使っている者同士で、お互いに保証された信念を持つように気をつけあう責任
(iii') みんなで信じることについて、その中の各々が保証されているように気をつける責任
(iv') みんなで信じることについて、認知共同体が全体として、保証されているように気をつける責任

以上のような様々な認識論的集団責任の概念について、どういうことがいえるだろうか。まず、(iii')は個人的責任に還元できるので、内在主義への対案としてのNIIの基盤としては弱い。他方、(iv')は集団的行為の概念を導入する必要があるので、冒頭でのべた形而上学的な社会化が要請されることになるだろうが、その分、これを共通了解とすることは難しいだろう。つまり、これらはあまりここで求めている認識論的集団責任の候補としては望ましくないことになる。
では(i')や(ii')はどうだろうか。これらの意味での責任は緊密な共同体を背景しており、通常使われる意味での認識論的責任のもっとも自然な拡張だと考えることができる。しかし他方、これに基づくNIIは、たとえば(b)を説明できないのではないかという疑いがある。幼児や動物が保証された信念を持つように気をつけるのは不可能ではないにせよ非常に困難であるし、それ以上に(b)の正しさとそうした周囲の人間の介入はあまり関係がないように思われる。
この問題は、(b)と(f)の二つの常識的真理が非常に根源的に対立していて両立不可能であることを示していると解釈することも可能である。しかし、そうやってあきらめる前にまだまだ考えてみるべき可能性はあるだろう。認識論的無責任とは、すでに確認したように、「根拠もなくあることを信じること」を指す概念である。だとすれば、「根拠はちゃんとあるのだ」と説明する説明責任(accountability)を果たすなら認識論的に責任ある認知者となることができる。この説明責任は他人でも肩代わりできそうである。たとえば、動物や幼児が知覚的信念を持つとき、その動物や幼児と同じグループに属していたり、同じ知覚プロセスを使っていたりする者が、その知覚プロセスが保証された信念につながると説明するなら、集団としては説明責任を果たしたことになるであろう。逆に、だれもそうやって説明してあげられない信念は、無責任な信念だったということになるであろう(注4)
以上のような考察は、結局、(i')や(ii')を以下のように説明責任に限定する形で再定式化するという解決につながる。

(i")認知者と同じ認知共同体に属しているというだけで発生する、その認知者が保証された信念を持つ場合にそれを説明する責任
(ii")同じような認知プロセスを使っている者同士で、そのプロセスが保証されたものであると説明する責任

これらの定式化は、(b)や(c)に含まれる洞察と(d)や(f)に含まれる洞察を共に生かすことができるという意味で理想的である。また、(i')や(ii')に比べても、(i")や(ii")は、それほど緊密な共同体を必要としない(説明責任を肩代わりしてあげる相手と直接接触する必要はない)という意味でも、NIIのさまざまなバージョンに適用可能なものである。

5 結論

本稿ではNIIというアプローチの有望性を中心に論じた。NIIは(a)から(f)のような常識的真理を取り込むことができる点で内在主義と外在主義の両方に対してアドバンテージを持つ。ただ、(f)に対処するための認識論的集団責任の概念は慎重に扱う必要があり、(i")や(ii")のような形で認識論的責任を集団説明責任と解釈する必要がありそうである。
こうした分析をふまえて、NIIのどのバージョンを採用するかについては、知識や保証についてのさまざまな常識的真理を満たす均衡点を探っていく必要があるだろう。本稿ではその方向性について示唆を行ったにすぎないが、どういう方向に進むかについておぼろげなイメージは持ってもらえたものと思う(注5)



(注1) 本稿でのこの論争のまとめ方は、BonJour 1985, Fumerton 1988, Goldman 1992, Vahid 1998などに依拠している。

(注2)これに対する外在主義側の回答で、外在主義をさらに二つに分類することができる。すなわち、デカルト的な懐疑をまじめに受け取らないという路線と、なんとかデカルト的懐疑にまつわる直観と外在主義を整合させようという路線である。ドレツキは前者を、ゴールドマンは後者をとっている(Dretske 1969; Goldman 1986)。両者の差はNIIへの態度の差にもつながりうる重要な点だが、この点の考察は別の機会にゆずる。

(注3) 認識論の文脈では、NIIに類する提案はこれまでほとんどなされていない。NIIと近い立場でよく知られているものとしてはM.ソロモンの「社会経験主義」があるが、ソロモンは内在主義と外在主義の対比の文脈でこの立場を提示しているわけではない(Solomon 2001)。認識論の文脈でわたしの知る限りNIIと最も近い立場を表明しているのはShogenji unpublished である。

(注4)これは説明責任という責任の特殊性に負うところが多い。説明責任は「説明できない行為をするのは無責任」という意味では基本的には未来志向型の責任であるのに、ある行為について事後的に説明する責任という過去志向的要素も持つ。説明責任の概念の詳しい分析は、スペースの関係上ここでは省略する。

(注5)本稿のもとのバージョンは2005年7月に行われた若手フォーラムテーマレクチャー「認識論の社会化と非個人主義的内在主義」であるが、当日の質疑応答をふまえて大幅な加筆を行っている。参加された皆さんに謝意を表したい。

文献

BonJour, L (1985) The Structure of Empirical Knowledge. Cambridge: Harvard University Press.
Dretske, F. (1969) Seeing and Knowing. Chicago: University of Chicago Press.
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Fumerton, R. (1988) "The internalism/externalism controversy", Philosophical Perspectives 2,
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