@phdthesis{oai:nagoya.repo.nii.ac.jp:00004889, author = {堀田, 慎一郎 and Hotta, Shinichiro}, month = {Nov}, note = {本論文では第一に、一九三〇年代における日本の政治とは、陸軍主流の政治路線が次第に定着していく過程であり、そしてそれが一九三九年に破綻した時、すでに陸軍主流の路線に代わりうるだけの力量を持った政治勢力や政治構想はなく、日本は将来への見通しを失った陸軍とともに敗戦への道を進まざるえなくなったことを示した。一九三一年の満州事変後、宇垣系に代わって陸軍の主流となった皇道派は、すでに一九三〇年頃から形成されていた海軍艦隊派、平沼系との連携を背景に、満蒙問題の強硬な解決、既存の国際秩序であるワシントン体制からの脱却、国内にあっては政党政治の打破などの、陸軍の基本的な目標を達成することに成功した。しかし陸軍皇道派は、その次にめざすべき国家目標について国内の合意を得ることに失敗し、陸軍内部からの強い批判を受けて没落していかざるを得なかった。代わって陸軍における主導権を握ったのが統制派であった。陸軍統制派は、一九二〇年代の国際秩序が崩壊した後の世界的な混乱状況に日本が強力な軍事力と国力をもって対応することを主張し、それを自ら中心となって実現することをめざした。そしてそれは、皇道派の観念的な政策や巧妙であるとはいえない政治介入路線、あるいは過激派将校などの実力行動による強引な方法では難しいと考えられ、統制派はその実現を担うべく台頭したといえる。 陸軍統制派は一九三四年初頭に台頭を始めて以来、対ソ連軍備の飛躍的充実、漸進的な華北分離政策、国防国家の漸進的実現の要求という三つの政策を軸にして現実の政治に対応していった。内政については国防国家実現よりも軍備充実を優先させつつ、元老・重臣勢力との対立と妥協を使い分け、最終的には一九三七年六月の第一次近衛内閣の成立によって、その要求を安定して実現していける政治体制を整えることに成功した。しかし、陸軍統制派が暴走しがちな現地派遣軍の行動を適度に統制しつつ国家政策として確立させていった華北分離路線は、結果として日中全面戦争が引き起こすことになった。そのため、統制派が漸くにして得た安定した体制はわずか一ヵ月で終わった。日中戦争の全面化、長期化に対し、陸軍統制派はそれまでの政策の枠組みを修正して対応した。対外路線にあっては、中国新中央政権の確立による華北地域の全面支配をめざすとともに、英米可分論の見地からドイツ・イタリアとの防共枢軸を強化し、イギリス・フランスに圧力を加えて中国における妥協を引き出そうとした。そしてそれによって中国大陸が日本の優勢下に安定し、軍事的経済的な基地とした後で、極東ソ連軍を一気に駆逐しようと構想するようになっていった。そしてその対ソ戦に備え、すでに日中戦争によって自動的に達成されていた軍事力の強化はもとより、国家総動員体制や国内生産力の拡充をさらに強く推進していこうとしたのであった。しかしその統制派の修正路線も、防共枢軸強化路線と英米可分論の崩壊、そして元老・重臣勢力との協調の破綻により、最終的に一九三九年八月に至り行き詰まる。それは陸軍主流が満州事変以後めざした、もっと厳密にいえば一九三四年初頭以来陸軍統制派がめざした路線の帰結であった。それが大日本帝国の破滅への道を決定づけたといえる。以後、陸軍の戦略はヨーロッパにおけるドイツとイタリアの動向に従属することになり、第二次世界大戦におけるその優勢をみるや、それに引きずられるように「大東亜共栄圏」構想へ接近していった。本論文では第二に、一九三〇年代における陸軍統制派の性格が、日本のファシズム体制をドイツやイタリアのそれとは異なったものにし、同時期の日本の政治を特徴づけたことを示した。日本においても、陸軍の特定あるいは少数の個人を中心にして諸勢力を横断する政治集団が日本国内における主導権を握り、ドイツのナチス党やイタリアのファシスタ党のような勢力となって日本の政治を動かすようになる可能性はないとはいえなかった。一九二〇年代以来の陸軍主流で政党との連携によって自己の立場を強化した宇垣系、一九三二年末から陸軍中央の主導権を握り、海軍艦隊派、平沼系との提携によって政治的枢軸を形成し、元老・重臣勢力に政権を要求した皇道派、また二・二六事件後に国防国家実現を急進的にめざし独自の政治的動きを示した石原派などは、その可能性を大なり小なり持っていた。しかし、主要な陸大エリート軍人たちはその道を選ばなかった。むしろそのような派閥がかえって陸軍の政治的軍事的利益を損なうと判断し、「粛軍」イデオロギーによって一貫してこれを否定、排除していった。このような性格を持つ陸軍統制派は、一九三〇年代を通じ自ら政権の主体になることは望まず、むしろ内閣総理大臣の権力を強化し、これに対する唯一の政治的窓口としての陸軍大臣が陸軍の意向の実行を迫るという政治介入路線を漸進的に追求していったのだといえる。つまり陸軍統制派は、一九三〇年代においては自らが全責任を負うような政治体制を必ずしも望まず、諸勢力を糾合し政治の安定を実現できる元老・重臣勢力の代表者を、内閣首班者として常に必要としていた。この時期の陸軍が、その飛躍的な政治的台頭にもかかわらず、元老・重臣勢力の動向に影響を受けた理由の一つがここにあった。統制派の「粛軍」イデオロギーは、陸軍の政治的台頭を促進したが、その一方でその限界をつくりだしていたともいえる。一九四一年一〇月における東条英機内閣の成立は、陸軍自らが政治の全責任を引き受けたことを意味するが、それは、対米英戦争が不可避となり抜き差しならぬ状況に追いつめられていた陸軍が、元老・重臣勢力に政権を半ば押しつけられたものでもあった。本論文では第三に、一九三〇年代の政治を陸軍主流とともに元老・重臣勢力を重視しつつ論じたが、この時期の政治史は、元老・重臣勢力の政治路線とそれに対応する陸軍主流の動向によって次のように総括できることを示した。まず第一の画期である一九三二年の五・一五事件によって、政党内閣の慣行が停止され、元老・重臣勢力が特定の政治勢力に政権を委託する体制から、元老・重臣勢力自らが中心となって政治を運営する体制に移行した。以後、元老・重臣勢力における西園寺路線が展開し、陸軍皇道派・海軍艦隊派・平沼系連合は台頭を阻まれ、それに代わった陸軍統制派の台頭も相対的に抑制されることになる。そして第二の画期である二・二六事件によって、西園寺路線は破綻し、陸軍主流路線が本格的に軌道に乗り始めるが、元老・重臣勢力における政治路線が定まっておらず、政治的安定を欠くことになった。その間に陸軍統制派路線が本格的に展開していくことになる。そして第三の画期である第一次近衛内閣の成立によって、元老・重臣勢力は軍部との妥協を大幅に進めた近衛路線に転換したが、それは二・二六事件前から陸軍統制派が追求してきた政治体制の確立をも意味していた。しかしこの近衛路線も、独伊との軍事同盟問題をめぐる陸軍との対立を契機として三八年末頃から機能しなくなっていった。やがて日独伊三国軍事同盟が成立し、対英米戦争が不可避になった時、政治的見通しを失った元老・重臣勢力は、政権を陸軍主流に明け渡す以外に道はなくなった。つまり、一九三〇年代の初頭において、日本は政党内閣を原則とする政治体制から、元老・重臣勢力の意を受けた政治家あるいは自らが内閣を主宰し、軍部との関係を調整しようとする政治体制に移行した。軍部、特に陸軍統制派にとって、その意向を実現していくためにこの体制は特に反対すべきものではなく、元老・重臣勢力の路線が陸軍に協調的であればむしろ歓迎すべきものであった。それ故にこの元老・重臣勢力と陸軍統制派が権力を分有する体制が長く続いた。そして一九三〇年代は、前述の理由によってこの体制が崩壊を始めるまでの時期であったといえる。, 名古屋大学博士学位論文 学位の種類:博士(歴史学) (課程) 学位授与年月日:平成12年11月10日}, school = {名古屋大学}, title = {一九三〇年代における日本政治史の研究}, year = {2000} }